It’s The Traffic (stupid)

It’s been months since a leading research institute, Riken, published its hypothesis for the low casualty rate for covid-19, namely the cross reactivity/immunity of killer-T cells. It seems that many Japanese, or their white cells have a memory of a similar strain.

 

Assuming that Riken’s findings are fairly accurate/scientific, the next question should be, how did the Japanese get it?

Factors may be manifold, but one factor obviously stands out: traffic from mainland China in the form of tourists.

 

According to the stats from the World Bank and etc., Chinese outbound tourism has been a major factor almost anywhere. However, there can be and have been ebbs and tides in the destination area(s).

 

Since a virus mutates, the Japanese and the low casualty areas must have had a good deal of exposure/traffic in the recent enough past, and before the corona turned seriously malicious.

Meanwhile, for the other high-casualty areas, the opposite must have happened, and once they got this strain of the corona, they were caught off guards.

 

Is there any evidence to support this?

--Yes.

According to the above sources, Chinese outbound tourism seems to have been disrupted during 2017 and 2018, when anti-immigration demos and violence spread in Europe. Then, many Chinese tourists changed their destination to East Asia and South East Asia, which were perceived to be safer.

That may have been a crucial period.

 

The above, of course, is more or less anecdotal. But I believe a thorough analysis should at least partially explain the noticeable gap or disparity in the casualty rates from region to region.

座り泳ぎするアヒルと化する空母擬きの護衛艦より……

超音速巡行ミサイルの前では、あたかも座り泳ぎするアヒルと化する(空母擬きの 護衛艦)なんかより……同じ艦船なら、内国民も外国/仮想敵国民を相対的に 刺激しにくい潜水艦群と、サイバー軍を充実させたほうがいい??

 

孫引きであるが、第二次大戦は航空戦であったとともに、否、それ以上に潜水艦戦であり 暗号・諜報(情報)戦であったことに鑑みれば。 (Cf. 「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」。荒川憲一。 『軍事史学』 vol.203, 2015)

 

「将軍が前の戦争を戦う」のはいいとしても、正しい教訓を学ぶべき。

それが一体なんであるかはわたくしもホントウはわからない。

Dune:現生人類は「ジハード」の夢を見るか?

もう海の向こうでは公開してるようですが、10月公開のSF映画の『Dune/砂の惑星』のこと。

 

Dune』6部作はSFにおける古典。たとえていうならファンタジー文学における『ロード・オヴ・ザ・リング』のような古典ではないかなと。

余談ながら前後の歴史を原著者のご子息(他)が書き継いでいるところも似てる。

 

1)期待値上がるPV

つべのPVを観る限り、いい出来のようです。

原作から半世紀以上経って(第1作はたしか前の東京五輪1964-5年頃)、やっと/ついに/とうとう原作にふさわしそうな劇場映画が出来た。

しかも少なくとも二作はできる様子。なのでむっちゃうれしい。ま、期待先行し過ぎないようにしたい。

 

映画化については、一回目の試みが記録映画になるくらい呪われていたので、ほんま諦めていた。

その間(他意はありません)、スピルバーグ的またはルーカス的な「スペース・オペラ」が世を席捲しちゃった感があって。とんだ風評以外ですが、個人としてはマンガはともかく(注1)、SFという文学ジャンルにすら萎えてしまいました……『三体』登場までは。

 

これも余談ながら、砂の惑星と砂蟲という世界観が『スター・ウォーズ』の一部や『風の谷のナウシカ』の一部に影響を与えたのは疑いない。

 

 

2) 人類は「バトレリアン・ジハード」の夢を見るか?

!注意! 以下、『Dune』の設定についてネタばれあり。!注意! 

 

ところで『Dune』には大事な設定があります。

前史で「思考機械」に対する、なんやろ、「打ち壊し運動」というかラッダイト運動のようなものがあった。しかも! 成功したとされる。それが「バトレリアン・ジハード」。

 

この設定は、砂と砂蟲(sandworm)と少数の人間しかいないDuneまたはアラキス/ラキスなる惑星の稀少価値のとても大事な前提となる(なお人間のクローン技術などは許されている)。

 

思考機械……要はAIですね?

 

現生人類が、あるいは仕事を失ったメイドが「ル〇バ」の打ち壊しをしたとは聞かない。

なぜ現在の我々は、こんな白物もとい代物を嬉々としてありがたがっているのか?

AIが高度化したとしても、たいていの頭脳労働者にとってかわれるとしても。

少なくとも大衆レベルで疑問とされないのか。それがたいへん不思議。

 

以下『Dune』より。

思考機械は人類を解放するかと思われた。しかし実際には思考機械を所有し操る少数の人間による圧制を招いただけだった

(引用は記憶に拠る)。

 

――大枠としてはこれに尽きるといまだに思います。

 

 

(注1)最近のマンガ作品では『AIの遺電子』シリーズ、『君を死なせないための物語』が出色。

 

ホントウに怖いドストエフスキー: ラスコリニコフの悪夢

 まず以下のことはあちこちで論じられているに違いないので、先取特権は 一切主張しません。今更感もきっとある。

 

さて。

預言者つー人は古今東西にいはるもんです。 しかしここ200~300年でいうと、今年生誕200年のドストエフスキーに比肩する人は なかなかいない。せいぜい夏目漱石やないかな。

 

万一「癲癇持ちの作家がなんぼのもんじゃ?」などとPCじゃないことを チラッとでも思う人がいらっしゃるならば、『罪と罰』の第七章もとい、 「エピローグ」をご一読いただきたい。 特にそこの所謂「ラスコリニコフの悪夢」を。

 

以下の大意は記憶に拠ります。

アジアか中国の奥地由来の細菌が人類を襲う。

悪夢の導入部分です。 これだけなら別にどうってことはないですわね。

 

しかし個人的にあの作家が怖い/ヤバいと思うのは、そこではない。

細菌にかかった、とりつかれた人間たちの振る舞い、その描写。

曰く、

各々が自分の正しさを確信して疑わず、意見を違えたら声高に罵りあう。 対話は成立しない。それどころか、言葉が通じない。挙句の果てには殺しあう。

――この部分が怖い。

これはまさにコロナの今からみた後知恵、hindsightで当たった風にみえる部分の 贔屓の引き倒しをしてるわけやないです。

なぜなら、比較的最近の社会心理学のお説に沿って説明してみると:

①死の恐怖に曝され、それぞれ個人個人は、個体の死を超える物事に惹かれる。

その結果、

②個人個人が過剰に道徳的・倫理的になる(統計的になりがち)。

しかも、

③それぞれの道徳や倫理や正義は(しばしば)互いに相容れない。

ピッタリ符合する。

 

色んな寄らば大樹に各人が自由気ままに飛びつく様、それが生む混乱をこそ「悪夢」は 描いている。

原理主義をあちこちでマジで主張しあうなら文字通り「神々の争い」。 そこには調停も和解の余地もない。

――こう考えると、ラスコリニコフの悪夢は不変かつ普遍の考察でしょう。 残念ながら後知恵ではない。

 

ついでに漱石の作品でいうと『草枕』の最後の方:

文明は人に自由を与える。だが個人個人の自由は尊重しない。数坪の狭い領域で 「その中でなら好きにしなさい」というだけ。しかしその飼いならされない獣は、 数坪の外でも自由に振舞いたいといつか牙をむく。今の平穏はあぶない、あぶない

(大意。やはり記憶に拠る)。

 

漱石は「いつか」がどういう状況か触れてない。 しかしそれはそれだけのこと、ドストエフスキーのいったことに極めて近くないか?

 

液晶画面の中だけの自由気儘をリアルで、しかも集団で実行したくなんかならない。

そう断言できる人でもないと、類似は否めない(まぁ我田引水の部分はあります)。

 

この先どうなることか、預言者でもない小生には皆目見当も……

落ちが着かなくてすみません m(_ _)m

 

【5巻発売記念・再掲】 『少年のアビス』は 『海炭市叙景』の追っかけ再生

ーー白ジグソーの名人・峰浪りょうに酔おうーー

 

5巻発売記念(本日付け)!

以前のエントリーを一部編集して再掲させていただきます。

 

『少年のアビス』(峰浪りょう著。既刊 45巻。集英社ヤングジャンプコミックス)は、令和の『海炭市叙景』。または同作の(エグめの)追っかけ再生と言いたい。

――という、わけわからん比喩が伝わるかはともかく、ですよ。

過疎りかけの町の、心中と脱出をめぐる心理劇です。

今の日本で(ホントウに)他人事じゃない人はまずいない。なので「は? 過疎の町ぃ?」と内心つぶやきかけた、そこの架空の貴方にも。広くおススメします。

 

なお筆者はコミックス派。以下で本誌で「違う」と判明したところも沢山あるかも。ご容赦ください m(_ _)m

 

(I)設定

まずザクっと舞台というか設定というか。

 

(a)「ワールドエンド・ボーイ・ミーツ・ガール」

副題です。「世界の終わり」の「男子・女子の出会い」。

男女は出会う。けれど彼/彼女(ら)の「世界」だった故郷の町は、すでに終わっている……ともとれる。町から出ていくには、外界の認識を絶ち切るしかない、ともとれる。

そんなふうに追い込まれた主人公と、二人の主人公格の女子/女性。

 

(b) あくまで人間関係主軸

鳥瞰的な事情や経済とかは主題じゃない。多分。峰浪さんのマンガを読む間は、心の隅っこにおいておくだけでいい。

だが無視もできない。人間関係や言動の前提に、町の経済的な行き詰まり、地方に顕著な(だが限定されない)結婚観、女性蔑視などがしばしばからんでくるから。

 

舞台となる町は、全国から集客の見込める観光スポットはない。

「映画化で「心中の町」って呼ばれたりして?」 「えーそれはやだな」「いいじゃん。このまま何もないよりは」(冒頭、概ねこんなやりとり。地方に残ったか残るつもりの人はガチな自虐は滅多に口にしないでしょう)

国道沿いにはチェーン店だらけの一角。いわゆる「ファスト風土」。

何より、町には雇用と最低限の誇りを生む……企業城下もなく、地場産業もない。

 

ここ20年、本州で特に増えた(とされる)寂れた町の典型。

平成後半~令和のこういう町って……バブル絶頂期に『海炭市叙景』において、北海道の著名観光都市の惨状として早々と、淡々と描かれた風景と空気。

それを追っかけ再生して、ちょっとミューテーション、変異させた風景なのかなぁと感じます。

『少年のアビス』には、『海炭市叙景』の如き「追っかけ再生」はなさそう……ですか?

多分そうじゃない。既に今、三大都市圏でも都心から二時間程度の地域で広がりつつある。このままなら、な・ら・ば、もっと拡大する。

「無縁」と言い切れる人なんて、純資産額が上位10%か、天寿全う間近な人だけ。

 

町が経済的に行き詰まるとき、家庭レベルではどん詰まりになる人が一段と増える。一方、頭のいいネズミは逃げられるし、実際 逃げる。残された住人と町は一段の停滞のスパイラルに入っていく。

でも、峰浪さんの作品はあくまで人間を描いた心理ドラマだと思うので

(シツコイっ)。

 

主人公は、医療従事者の最下層と自らいう「看護助手」のシングル・マザー家庭の、次男。

四人家族は、他に引き籠り/巣籠り中の長男。認知症の祖母。

何年も前に出奔した父親は、少なくともDVをしていたとされる。

 

重そうで暗そうですね。でも面白い、じゃない、経験したこともないのに、胸に迫るところがあって。

染みるような無邪気な笑いもある。

 

c)「同中」「同小」つながり

人間関係や心理の話である以上、「地元」の付き合いの前提も関わってきます。

 

それは、「同中」「同小」のつながり。絆。住む限り一生、切れない。男女問わず、リアルとSNSでつながりっぱなし。それどころか祖父母や親の代からの絆や、「世話したりされたり」が幾重にも重ねられ、若者や現役世代を縛る。

このへん、成人後はかつての同級生とSNSでしかつながらなくても一応は済ませられる、今の大都市や郊外の生活とはちがう。

 

それが何か? とその居心地に疑問も持たない人もいる。同中のカースト上位が典型。上位でいられる大きな理由に、両親や祖父母の経済的地位がしばしばからむ。雇用主一族または地主一族です。小山の大将でいられる、居心地のいい地元を出て、何者でもなくなる都会に出ていく理由なんてない。で、上位同士、上位と二番手でつるむ。

国道沿いのいつもの店で延々ダベる分には、「別に、いんじゃね?」。

そりゃそうでしょう。

 

しかし居心地が悪い人は、もっといる。同中のカーストの下のほう。ハブられるようになった人もそう。町に住む限り、序列やらに一生引きずられる。「×××のくせに」と二十年、三十年前のことを言われかねない。

 

d)情死か駆落ちか

連載は、まだまだ続く……と期待してるので。

繰り返しますが、「その路線、連載で消えたよ」な推理は、以下に混じるかも。

 

まず、闘争や討論を通じた世論の変更は、期待できない。何を言うかより、誰が言うか。それが何より大事な、地縁集団。

そうなると、憂き世の義理。浮き世の情。その板挟みになった日本人が選ぶ方法は、あくまで一般論では、定石? としては、近松門左衛門お得意の心中、情死がある。または「駆け落ち」。逃散。要は、逃走。

 

どっちになるの? 第三の道はホントウにない?

 

e)息が詰まる。息を呑む。

息が詰まりそうな町で、峰浪さんの息を呑むような、情死と心中を巡る緊密な心理ドラマは展開する。

わたくしは1巻を読んで、予感に震えた。

 

1巻を読み、続きを読みたくならなければ「ウソだ」。

いくらでも言う。

さっきまでの風呂敷は、自分の語彙にしたコトバでそれなりに深く広げたけども、「ウソだ」という気持ちに欺瞞はないつもり。

 

(f) 「白ジグソーの名人」峰浪りょう

峰浪さんは作画がキレイ。

台本作りにおいては、さらにスゴ腕。鮮やかな包丁捌き。「どうしてそこが切れるとわかるの?!」と叫ばせる。

白ジグソーの名人でもある。「なぜそのピースがあそこへはまるとわかんの?!」

なので「ベタ」や定石も自然な形でスルっとかわす、ズラせる方です。

 

本作品も、町に向かって中指つっ立てるかはともかく、納得で未知の落ちを着けてくれるんじゃないか。そう期待してます。

落ちがどんな形になるか――凡人には想像もつかない。つかないから、1巻からずっとハラハラ、サスペンス状態なんです。

 

 

(!注意! 以下は現時点の読み解き風メモ。ネタバレ含みます)

ミニ・クライマックスの心中

冒頭の事件勃発は常道。でも「心中」ってハリウッドあたりでは扱いにくいだろうなぁ。

 

謎の「献辞」

1巻の一章の最後の献辞:「あの町と あの町で眠る Kへ」

なんの本の献辞?

K」は、順当には主人公の苗字のイニシャル。

では、物語上は「未来の」本のもの? 書き手、誰?

いや。『春の棺』の冒頭の献辞かもしれない。

いやいや。峰浪さん自身の「私小説的な」献辞かもしれない。

 

主人公は一人。主人公格は二人

主人公は一人。主人公格は二人。

わたくしはそういう認識。今のところ。

 

主人公、黒瀬令児。黒い、瀬? 川の流れが早いところ。浅いところ。何かと出会う所(逢瀬)。

個々の黒い深淵が出会う浅瀬なの、令児クン?

令和の子、児童なの、令児クン?

令児のレイは「零」に通じるの?

 

主人公格のヒロインは、二人とも主人公を恋うている。

個人的にはどっちも「推し」。

 

朔子(チャコ)。新月(黒い月)の女子は、黒瀬のソウルメイトの幼馴染。エゴやすれ違いはある。でもお互いを真剣に応援してる感が、救い。チャコは抑圧的な町を出て編集さんになれるといいねぇ。

 

担任の柴ちゃん先生改め、由里。黒々とした半・ゾンビまなこが目立つ。

メンヘラ認定する人もいるでしょう。でも「絶対 結婚も出産もしてやらない」と決意した、古里の半・囚人。現場にたまたま居合わせ、令児を救いつつ女として(一っ時は)満たされる――身勝手1/3自己欺瞞1/3の「生きがい」をやっと見つけた。

非難する人はいるでしょうよ。でもその資格がある人は滅多にいない。

 

三人の扱いは突出している: 1巻~3巻。計3回。心の深い淵からモノローグがダァーってほとばしる超絶ネーム量の、見開きページがそれ。

 

さてどっちが主人公と町をどう出ることに成功するのか。二人とも挫折するか。

 

仇/敵役

アンチというか仇役は、とりあえず二人。幼馴染の玄と母親。

 

恩着せ幼馴染、玄――

「玄」も黒のことではなかったか?

なんなの? 令児をパシリ扱いのなのに、時に友達面、時に庇護者面。マジなんなの?

安心と信頼の主従関係に病的な執着? 「地元」の男優位社会では許されない感情? まさか。

 

でも彼の深淵はまだ見えてない。

実は、この仇の二人も、1ページだけだが、丸々モノローグがある。

しかし言葉は、深淵に根ざした率直なものではない疑いが。

欺くため、外連味たっぷりに言ってみ・せ・て・るだけ。

(演技であるのが)わかりやすいのは、玄。

パシリで買わせた「未開封の」タバコの山に、ドキッ/ゾッ。なんのために買わせてんの?

「これで これで大丈夫」って。怖い。なんも大丈夫じゃないっしょ?

 

役者として数段手ごわいのは、母親。千両役者。

母の恩愛は演技まじりでも、重い。事あるごとに、自分の疲弊ぶり苦労ぶりを、罪の意識として息子に背負わせる言葉を吐く。

ほころびつつあるが、洗脳だ。でなければ、呪いだ。

土建屋って体の……」地元企業を、「だから。だから、安泰なんじゃない」と就職先として勧める。半・違法組織のフロント企業を息子の就職先に勧める母親は、令和の今、いるのか、いないのかわからない。

明確に描かれてないが、玄の父親相手に「ライト」な「売り」をやっているかも。これもレバレッジに使えるとみれば使いそう。

 

確かに、そんな追い詰められぶりには、たしかに同情する。

でもここだけは緩めてはいけないというネジが何本か緩んでるとも感じる。

……などといったら、「キレーゴトいうなっ」とコンビニ弁当のガラが飛んできそうだから、言いません。

 

狂言回し(的な?)

わからないのが、作家とその妻。

妻は「元アイドル・ナギ」。下手すると少年誌的なベタになりかねないが「ア・ラ峰浪りょう」です。大丈夫。

町に埋もれる運命を受け容れようと諦めていた主人公・令児。その心に、タバコの貰い火で「はい」 と火を点けた。息を吹き込まれた泥人形のように令児は、煙を呼吸し、溺れ始める。嵐の夜に運命も大きく変えた。

その名も「ナギ/凪」……暗合、出来過ぎ。

でも、走り始めた以上、今後はもう関わってこないのか? ずっと?

 

次に、怪しく、悪そうな職業作家。妻を寝取られて平気な新婚さんの、夫。

わけわかりません。なんなん、こいつ?

自分の中になにもないナギが令児にもう一度関わるとすれば、この男の指図になるのだろうか?

 

三つの情死

1)「情死が淵」伝説(真偽は、実のとこ不明?)。

2)比較的近い過去の、高校生の心中未遂事件(片方のみ死んだ)。

死んだのは男なのに、自分はそのときの生き残りと語る(騙る?)男性作家。

3)ありうる選択肢としての、5巻以降の心中。

三つはそもそも関連あるの? あるなら、どう関わってくる?

 

「出てくならお前の身内も住めんようにしちゃる」

この町も、かつて活気があったのか?

それは、あった、にちがいない。かなり昔は。

笑顔でちらちら登場し、でも「出てくなら お前の身内も住めんようにしちゃる準備なら、いつでも出来とる」感も滲む大人や老人(いえ、純粋な邪推です)。

一抹の憐れさ。身につまされます……

 

だって、ねぇ? 仮に、景気が悪くないとき、住宅や開業資金をローンで借りたとしましょう。

「あれ? 町、沈みかけている。逃げ出そう」と家や店を手放そうとしますね? でも、ローンが阿呆みたいに残るような額で売れたとしたら、まだラッキー。

買い手がつくわけない。大抵は、売るに売れない。だから逃げるに逃げられない。

「みんな知ってる」こと? 「今どきローンなんて誰も借りない」?

 

類似のことはどこでだって起きうる。くどいですが、現在「過疎化は地方のこと」とニュースをダラっと眺めてる人が多い大都市周辺でも、『少年のアビス』のへどん詰まり感は、一種の未来予想図。

 

深淵

「少年」は無邪気でもないし無知でもない。

ついでをいえば無垢でもない(なくなる)。

たしかに考えることを放棄し、無知を装っている。だが大人や「コミュ上手」の心理的計算、心のレバレッジ、てこ。絆や情に訴えようと繰り出す呪文。

――全て見抜けるくらいの知恵も観察力もある。だが裏切るのも怖い。

まだ何者でもない若者には大抵、怖いでしょう。

そんなこんなのごったまぜの黒いモノが渦巻く深淵。それに無理矢理フタをしていた。ナギにそのつもりはあったのか、釜の蓋を開けた。

 

そんな彼の……「深淵を覗いた者は、深淵が覗き返す」ということ?

チャコも由里もそれにヤラレた? (表現、そもそもどういう意味だ??)

主人公って、被害者面した無自覚な加害者? よくて鏡? または、触媒?

 

田舎で今、都会の郊外でも早晩、現在複数進行形の閉塞感。その中をなんとか生きようとする足掻きも悩みも涙も。妖しく切なく輝く。

「お前も不満たらたらなのに、行動もせず他人を恨むだけか? 妬むだけか?」

と迫る。

救いは、なかなかな無さそう。だけど、有ってほしい。

 

というわけで。

峰浪さんの手の平でピョンピョン、梅雨時の蛙の体操は、以上で終了であります。

Vaccines Shared: Japan Does The Right Thing -For a Change

Sharing Vaccines or a long-overdue repayment to a neighbour:

 

Japan seems to be getting things right -at last.

By which I mean Japan sending off surplus vaccines to its neighbour, Taiwan.

 

True, there will probably be avoidable, but in the end outweighed, repercussions from other neighbour(s).

In what seemed to be, however, an endlessly muddled handling of counter-COVID19 measures, this is a welcome change.

 

My reason for supporting this gift-giving is the fact that, in a nutshell, Japan was lucky this time.

At least so far.

It’s about time people living in Japan faced it:

somehow, for some unknown reason, people in Japan are relatively immune or resistant to the novel, new, newer and maybe even the most novel Corona virus.

 

If and when you’re lucky, you’re not required to, but I think it’s much better to,

share your good fortune.

Call it what you want: a “giveaway,” maybe. I prefer to call it plain ol’ sharing.

 

Share it with your neighbours, friends, relatives or community(-ies) that helped you out back then.

 

Taiwan stood out in its support per capita for Japan exactly a decade ago.

 

There’s a Japanese proverb that says:

“Sympathy and support is not meant for others.”

It’s meant for you. But the repayment may never take place in your lifetime, but you should be content with that.

 

Reciprocal gift-giving and sharing,without asking for immediate repayment. They can be and are essential for weaving and strengthening the human social fabric.

 

 

 

N.B., the above fact does not make it safe for a foreigner from, say, Europe or South America to visit Japan

It’s like outsiders visiting, for example, Africa. They won’t be as safe against malaria as the native population.

Not without prior medication.

『少年のアビス』は『海炭市叙景』の 追っかけ再生 白ジグソーの名人・峰浪りょうに酔おう

『少年のアビス』(峰浪りょう著。既刊4巻。集英社)は、

令和の『海炭市叙景』……の 追っかけ再生 と言いたい。

 

――わけわからん比喩が伝わるかはともかく。

過疎りかけの町の、心中と脱出をめぐる心理劇。

今の日本で(ホントウに)他人事じゃない人はまずいない。「過疎の町ぃ?」と内心つぶやきかけた そこの架空の貴方 にも。 広くおススメします。

 なお筆者はコミックス派。以下で本誌で「違う」と判明したところも沢山あるかも。ご容赦ください m(_ _)m

 

(I)設定

まずザクっと舞台というか設定というか。

 (a)「ワールドエンド・ボーイ・ミーツ・ガール」

副題です。「世界の終わり」の「男子・女子の出会い」。

男女は出会う。けれど彼/彼女(ら)の「世界」だった故郷の町は、すでに終わっている……ともとれる。町から出ていくには、外界の認識を絶ち切るしかない、ともとれる。

そんなふうに追い込まれた主人公と、二人の主人公格の女子/女性。

 (b) あくまで人間関係主軸

鳥瞰的な事情や経済とかは主題じゃない。多分。峰浪さんのマンガを読む間は、心の隅っこにおいておくだけでいい。

だが無視もできない。人間関係や言動の前提に、町の経済的な行き詰まり、地方に顕著な(だが限定されない)結婚観、女性蔑視などがしばしばからんでくるから。

 舞台となる町は、全国から集客の見込める観光スポットはない。

「映画化で「心中の町」って呼ばれたりして?」 「えーそれはやだな」「いいじゃん。このまま何もないよりは」(冒頭、概ねこんなやりとり。地方に残ったか残るつもりの人はガチな自虐は滅多に口にしないでしょう)

国道沿いにはチェーン店だらけの一角。いわゆる「ファスト風土」。

何より、町には雇用と最低限の誇りを生む……企業城下もなく、地場産業もない。

 

ここ20年、本州で特に増えた(とされる)寂れた町の典型。

平成後半~令和のこういう町って……バブル絶頂期に『海炭市叙景』において、北海道の著名観光都市の惨状として早々と、淡々と描かれた風景と空気。それを追っかけ再生して、ちょっとミューテーション、変異させた風景なのかなぁと感じます。

 

でも『少年のアビス』には『海炭市叙景』の如き、「追っかけ再生」はなさそう

……ですか?

多分そうじゃない。

既に今、三大都市圏でも都心から二時間程度の地域で広がりつつある。このままなら、な・ら・ば、もっと拡大する。「無縁」と言い切れる人は、天寿全う間近な人だけ。

 

町が経済的に行き詰まるとき、家庭レベルではどん詰まりになる人が増える。頭のいいネズミは逃げられるし逃げる。残された住人と町は停滞のスパイラルに入っていく。

でも、あくまで人間を描いた心理ドラマだと思うので(シツコイっ)。

 

主人公は、医療従事者の最下層と自らいう「看護助手」のシングルマザー家庭の次男。

四人家族は、他に引き籠り/巣籠り中の長男。認知症の祖母。何年も前に出奔した父親は、少なくともDVをしていたとされる。

重そうで暗そうですね。でも面白い、じゃない、胸に迫るところも多い。

染みるような無邪気な笑いもある。

c)「同中」「同小」つながり・呪縛

人間関係や心理の話である以上、「地元」の付き合いの前提も関わる。

つまり「同中」や「同小」のつながり。絆。住む限り 一生 切れない。男女問わず、リアルとSNSでつながりっぱなし。それどころか祖父母や親の代からの絆や「世話したりされたり」が幾重にも重ねられ、若者や現役世代を縛る。

このへん、成人後はかつての同級生とSNSでしかつながらなくても一応済ませられる、今の大都市や郊外の生活とはちがう。

 「それが何か? 」と居心地に疑問も持たない人もいる。

同中のカースト上位が典型。上位でいられる大きな理由に両親や祖父母の経済的地位もしばしばからむ。お山の大将でいられる地元を出て、何者でもない都会に行く動機づけが弱い。で、上位同士、上位と二番手でつるむ。国道沿いのいつもの店で延々ダベる分には「別に、いんじゃね?」と。

だが居心地が悪い人は、もっといる。同中のカーストの下半分。町に住む限り、中学の序列に一生引きずられる。「××のくせに」と二十年、三十年前のことを言われかねない。

 d)情死か駆落ちか

連載は、まだまだ続くので。と期待してるので。

繰り返しますが、「その路線、連載で消えたよ」は以下に混じるかも。

まず、闘争や討論を通じた世論の変更は、期待できない。何を言うかより、誰が言うか。それが何より大事な地縁集団だ。

そうなると、憂き世の義理。浮き世の情。その板挟みになった日本人が選ぶ方法は、あくまで一般論では、定石? として近松門左衛門お得意の心中、情死がある。

または「駆け落ち」。逃散。要は、逃走。

どっちになるの? 第三の道はホントウにない?

e)息が詰まる。息を呑む。

息が詰まりそうな町で、峰浪さんの息を呑むような、情死と心中を巡る緊密な心理ドラマは展開する。わたくしは1巻を読んで、予感に震えた。

1巻を読み、続きを読みたくならなければ、ウソだ。

いくらでも言う。目を覆いたくなるが、ヒトゴトじゃない。貴男も貴女も貴方も追い詰められている。か、いずれそうなる。

さっきまでの風呂敷は自分の語彙にしたコトバでそれなりに深く広げた。でも欺瞞はないつもり。

 (f) 「白ジグソーの名人」峰浪りょう

峰浪さんは作画がキレイ。

台本作りにおいて、さらにスゴ腕。鮮やかな包丁捌きの。「どうしてそこに包丁が入りやすいとわかるの?!」

白ジグソーの名人は、「なぜそのピースがあそこへはまるとわかんの?!」ってなもん。

なので「ベタ」や定石も自然な形でするっとかわす。ズラせる方です。

本作品も、町に向かって中指つっ立てるかはともかく、納得で未知の落ちを着けてくれるんじゃないか。そう期待してます。

結末・落ちがどんな形になるか――凡人には想像もつかない。

つかないから、1巻からずっとハラハラ、楽しいサスペンス状態。

  

 

(!注意! 以下は現時点の読み解き風メモ。ネタバレ含みます)

 ① ミニ・クライマックスの心中「直前」

冒頭の事件勃発は常道でも、心中はハリウッドあたりでは扱いにくいだろうなぁ。

 

 ②謎の「献辞」

1巻の一章の最後の献辞:「あの町と あの町で眠る Kへ」

なんの本の献辞? K」は、順当には主人公の苗字のイニシャル。では物語上「未来の」本のもの? 書き手、誰? いや。『春の棺』の冒頭の献辞かもしれない。いやいや。峰浪さん自身の「私小説的な」献辞かもしれない。

 

主人公は一人。主人公格は二人

主人公は一人。主人公格は二人。

わたくしはそういう認識。今のところ。

 主人公:黒瀬令児。黒い、瀬? 川の流れが早いところ。浅いところ。何かと出会う所(逢瀬)。個々の黒い深淵が出会う浅瀬なの、令児クン? 令児のレイは零でもあるの?

主人公格:ヒロインは二人とも主人公を恋うている。個人的にはどっちも「推し」。

 朔子(チャコ)。新月(黒い月)の女子は、黒瀬のソウルメイトの幼馴染。エゴやすれ違いはある。でもお互いを真剣に応援してる感が、救い。チャコは抑圧的な町を出て編集さんになれるといいねぇ。

 担任の柴ちゃん先生改め、由里。黒々とした半・ゾンビまなこが目立つ。メンヘラ認定する人もいるでしょう。でも「この町で絶対 結婚も出産もしてやらない」と決意した古里の半・囚人。

現場にたまたま居合わせ、令児を救いつつ女として(一っ時は)満たされる――身勝手1/3自己欺瞞1/3の「生きがい」をやっと見つけた。

そりゃ非難する人はいるでしょうよ。でもその資格がある人は滅多にいない。

 三人の扱いは突出している: 1巻~3巻。計3回。心の深い淵からモノローグがダァーってほとばしる超絶ネーム量の、見開きページがそれ。

 

さて。どっちが主人公と町を、どう出ることに成功するのか。二人とも挫折するのか。片方だけか。見当もつかない。

 

仇/敵役

アンチというか仇役は、とりあえず二人。

幼馴染の玄と母親。

(a)恩着せ幼馴染、玄――「玄」も黒のことではなかったか?

なんなの? 令児をパシリ扱いのなのに、時に友達面、ときに庇護者面。こいつマジなんなの?

安心と信頼の主従関係に病的な執着? 「地元」の男優位社会では、まず許されない感情? まさか。

 でも彼の深淵はまだ見えてない。

実はこの仇の二人も、1ページだけだが丸々モノローグがある。

しかし言葉は、深淵に根ざした率直なものではない疑いが。欺くため、外連味たっぷりに言ってみ・せ・て・るだけ。

わかりやすいのは、玄。パシリで買わせた「未開封の」タバコの山に、ドキッ/ゾッ。なんのために買わせてんの?「これで これで大丈夫」ってなんも大丈夫じゃないっしょ?

(b) 母親

役者として数段手ごわいのは、母親。千両役者。母の恩愛は演技まじりでも、重い。

事あるごとに自分の疲弊ぶり苦労ぶりを、罪の意識として息子に背負わせる言葉を吐く。ほころびつつあるが、洗脳だ。でなければ、呪い。

土建屋って体の……」地元企業を「だから。だから、安泰なんじゃない」と就職先として勧める。

明確に描かれてないが、玄の父親相手に「ライト」な「売り」をやっているかも。これもいざレバレッジに使えるとみれば息子に使いそう。

確かに、そんな経済的な追い詰められぶりには、たしかに、同情する。でもここだけは緩めてはいけないというネジが何本か緩んでるとも感じる……などといったら、「キレーゴトいうなっ」とコンビニ弁当のガラが飛んできそうだから言いませんけどね。

 

狂言回し(的な?)

わからないのが、作家とその妻。妻は「元アイドル・ナギ」。下手すると少年誌的なベタになりかねないが、ア・ラ峰浪りょう なので大丈夫。

町に埋もれる運命を受け容れようと諦めていた主人公・令児。その心に、タバコの貰い火ではい、と「火を点け」た 。息を吹き込まれた泥人形のように令児は、煙を吸ってはいて、溺れる。

嵐の夜に運命を大きく変えることになる「ナギ/凪」……暗合、出来過ぎ。

でも、走り始めた以上、今後はもう関わってこないのか? ずっと?

 次に、怪しく、悪そうな職業作家。妻を寝取られて平気な新婚さんの、夫。

わけわかりません。なんなん、こいつ?

 「自分の中になにもない」ナギがもう一度関わるとすれば、この男の指図によってだろうか?

 

三つの情死

a)「情死が淵」伝説(真偽は、実のとこ不明?)。

b)比較的近い過去の、高校生の心中未遂事件(片方のみ死んだ)。

死んだのは男なのに、自分はそのときの生き残りと語る(騙る?)男性作家。

c)ありうる選択肢としての、5巻以降の心中。

三つはそもそも関連あるの? あるなら、どう関わってくる?

 

「出てくならお前の身内も住めんようにしちゃる」

この町も、かつて活気があったのか? それは、あった、にちがいない。

笑顔でちらちら登場し、でも「出てくならお前の身内も住めんようにしちゃる準備は、いつでも出来とる」感も滲む大人や老人(いえ、純粋な邪推です)。

一抹の憐れさ。身につまされます……だって、ねぇ?

仮に、町の景気が悪くないとき、住宅や開業資金をローンで借りたとしましょう。

「あれ? 町が沈みかけている」と気付く。「自己判断で」慌てて逃げ出そうとする。 家や店を手放そうとしますね? でもローンが阿呆みたいに残るような額で売れたら、まだラッキー。大抵は売るに売れない。だから、逃げるに逃げられない。

「みんな知ってる」こと? 「今どきローンなんて誰も借りない」?

 

 類似のことはどこでだって起きる。くどいですが、現在「過疎化は地方のこと」とニュースをダラっと眺めてる人が多い大都市周辺でも、未来の予想図。

 

深淵

「少年」は無邪気でもないし無知でもない。ついでをいえば、無垢でもない(なくなる)。

たしかに考えることを放棄し無知を装っている。だが大人や「コミュ上手」の心理的計算、心のレバレッジ、てこ。絆や情に訴えようと繰り出す呪文。全て見抜けるくらいの知恵も観察力もある。だが裏切るのも怖い。まだ何者でもない若者には大抵、怖いでしょう。

そんなこんなごったまぜの黒いモノが渦巻く深淵。それに無理矢理蓋をしていた。ナギにそのつもりはあったのか、釜の蓋を開けた。

 

そんな彼の……「深淵を覗いた者は、深淵が覗き返す」ということ? チャコも由里もそれにヤラレた? (表現、そもそもどういう意味だ??)

主人公って、被害者面した無自覚な加害者? よくて鏡? または、触媒?

  

田舎で今、都会の郊外でも早晩、現在複数進行形。ドン詰まり。その中をなんとか生きようとする足掻きも悩みも涙も。妖しく切なく輝く。

「お前はどうだ」と迫る。

救いは、なかなかな無さそう。だけど、有ってほしい。

 

 

峰浪さんの手の平でピョンピョン、梅雨時の蛙の体操は、以上で終了であります。