ホントウに怖いドストエフスキー: ラスコリニコフの悪夢

 まず以下のことはあちこちで論じられているに違いないので、先取特権は 一切主張しません。今更感もきっとある。

 

さて。

預言者つー人は古今東西にいはるもんです。 しかしここ200~300年でいうと、今年生誕200年のドストエフスキーに比肩する人は なかなかいない。せいぜい夏目漱石やないかな。

 

万一「癲癇持ちの作家がなんぼのもんじゃ?」などとPCじゃないことを チラッとでも思う人がいらっしゃるならば、『罪と罰』の第七章もとい、 「エピローグ」をご一読いただきたい。 特にそこの所謂「ラスコリニコフの悪夢」を。

 

以下の大意は記憶に拠ります。

アジアか中国の奥地由来の細菌が人類を襲う。

悪夢の導入部分です。 これだけなら別にどうってことはないですわね。

 

しかし個人的にあの作家が怖い/ヤバいと思うのは、そこではない。

細菌にかかった、とりつかれた人間たちの振る舞い、その描写。

曰く、

各々が自分の正しさを確信して疑わず、意見を違えたら声高に罵りあう。 対話は成立しない。それどころか、言葉が通じない。挙句の果てには殺しあう。

――この部分が怖い。

これはまさにコロナの今からみた後知恵、hindsightで当たった風にみえる部分の 贔屓の引き倒しをしてるわけやないです。

なぜなら、比較的最近の社会心理学のお説に沿って説明してみると:

①死の恐怖に曝され、それぞれ個人個人は、個体の死を超える物事に惹かれる。

その結果、

②個人個人が過剰に道徳的・倫理的になる(統計的になりがち)。

しかも、

③それぞれの道徳や倫理や正義は(しばしば)互いに相容れない。

ピッタリ符合する。

 

色んな寄らば大樹に各人が自由気ままに飛びつく様、それが生む混乱をこそ「悪夢」は 描いている。

原理主義をあちこちでマジで主張しあうなら文字通り「神々の争い」。 そこには調停も和解の余地もない。

――こう考えると、ラスコリニコフの悪夢は不変かつ普遍の考察でしょう。 残念ながら後知恵ではない。

 

ついでに漱石の作品でいうと『草枕』の最後の方:

文明は人に自由を与える。だが個人個人の自由は尊重しない。数坪の狭い領域で 「その中でなら好きにしなさい」というだけ。しかしその飼いならされない獣は、 数坪の外でも自由に振舞いたいといつか牙をむく。今の平穏はあぶない、あぶない

(大意。やはり記憶に拠る)。

 

漱石は「いつか」がどういう状況か触れてない。 しかしそれはそれだけのこと、ドストエフスキーのいったことに極めて近くないか?

 

液晶画面の中だけの自由気儘をリアルで、しかも集団で実行したくなんかならない。

そう断言できる人でもないと、類似は否めない(まぁ我田引水の部分はあります)。

 

この先どうなることか、預言者でもない小生には皆目見当も……

落ちが着かなくてすみません m(_ _)m