オリンピック 元祖のギリシャ人にとっての、死

「このご時世」?、前稿をうけての「枕」としてあまり適切ではないかもしれません。

粗忽長屋』だったか、噺の一つの題材ではあるので……否、そんなことはともかく。

 

今回は、古代ギリシャ人にとっての 死 について。

 

おさらい。

オリンピックは、今でいうスポーツ・フェス。ですが、神々に捧げる神聖な祭事。

前々回と前回述べた通り、神聖な儀式には、不浄なカネの入り込む余地なし。

かつ、政治利用は禁止。祭事のため全ての「ヘラスの民」が集うので戦争中の国(ポリス)も停戦した。

だいぶ前ですが近代オリンピックにあったボイコットなど政治利用。今なら人類の連帯そのものを否定しかねない。なので、モッテノホカ。

(あくまで、「古代ギリシャ的には」。どこかの下院議長に対する 当てこすりではありません)。

 

さて。古代ギリシャ人にとって、祭事を捧げる神々とは、「不死者、死なざる者、immortal」とも呼ばれた(記憶では「ティターンtitans」族も)。

それに対し、人間は、「死すべき存在、mortal」。

ギリシャ人が喝破した人間の、死すべき運命。定め。

 

それどころか!、多細胞生物にほぼ唯一共通の運命は、「個体の死」です。

単細胞生物などには、母が子にクローン分裂を繰り返し、大絶滅を乗り越え、億年単位で生存中のものが今もいるといいます。

クラゲは多分多細胞ですが、何億年生きている個体がいるとかいないとか。今人気らしい、少年マンガに無理やりなぞらえると……『葬送のフリー〇ン(ただし海月)』

って感じでしょうか?

わたくしは、生きた化石以上の存在を拝む栄誉にあずかったことは無いです。でも「わたくしは、貝でなく、単細胞に生まれたい」と夢見ることはあるような。

 

人の死はいずれ相当程度克服できるのではないかと愚考します。

昔の村上春樹か龍の小説にもありました:

 

①絶えざる「全脳アップロード」。

要は脳の記憶、メモリーの電脳へのバックアップ。

②「クローン人体の確保」

③「電脳バックアップ記憶の、自然脳への移植」

平たくいうと、「コピー&ペースト」または「カット&ペースト」なんですかね?

 

この三つが無問題で実践可能になれば、できること。

最初は当然、富裕層対象。費用次第ですが、かなりの比率の人類が死から解放されるか、相当の長命になる可能性はある。

 

なおその場合、有性生殖のオプションはどうなるのか?

長命化した人類に、有性生殖がオンされたら、人口爆発と「動物の(生存)権」圧迫は必至ですが、賢い方々はそのあたりも抜かりないんでしょう。

 

ちょっと脱線。

個体の長命化の広がり、死の克服。それは人類という種にとって望ましいか?

これは全く別問題。

以下、エピジェネティクスは一旦無視します。また、生物進化における突然変異の重要性の有無についても争いがありますが、これも無視します。

人類その他の種は、二重螺旋のDNAに生物学的な遺伝情報が詰まってます。これは争いがない。

その結果、転写ミスが起きにくい。つまり突然変異が起きにくい。もしかしたら致命的な、制約がDNAです。

今人類を苦めている(相対的に)単純な構造のウィルスは違う。

RNAだけ。最初から転写ミスがしばしば起きるようにできている。少なくともより頻繁に起きやすい。彼ら(「彼女ら」?)の絶えざる試行錯誤は、絶えず変化する外部環境に適応するため。

必要な「多様性の確保」につながる。つながりうる。大きなメリットがある。

 

しかし人間様などはちがう。

二重の遺伝情報の鎖(螺旋の対)の両方は、ある物質(塩基)が一対一で対応している。変異が起きるためには、ウィルスとちがい、対応している二つの物質が同時に変異する必要がある。

したがって人類のような生物では……変異はかなり稀にならざるをえない。

つまり人間様などは、ウィルスにはある多様性確保戦術がとれない。頻度が非常に小さい。

なぜそんな「欠陥ある」仕組みなのに。絶滅期や氷河期を生き延びてこれたか?

言い換えるなら、DNA型の生物は、個体群が遺伝的に現状維持再生してしまうと、環境の変化で絶滅しやすくなる。なのにナゼ生き延びた? という問いです。

 

結論的には、過去に何度もそういう怖い目に遭った、原初のグレート・イヴ(の一部)は、有性生殖による遺伝子の交配という多様性確保の戦術を採用した(らしい)。

その過程で誕生したのが、一見ひ弱で小さい「できそこないのⒸ福岡伸一Y遺伝子をもつ個体。雄。♂です。「アダム」もどき。

例えば深海から浅瀬、浅瀬から陸上に移る過程で、残留放射能や酸素などで偶々アダムができたのか? 偶然有性生殖するようになったイヴとアダムの子孫だけが環境の激変にも生き残りやすい、多様性を保ちえたのか、詳細は必ずしも明らかではない。

しかし原初にはイブ擬きだけ。アダム擬きはその補完として生まれた。

以上が生物学の最近の知見であり、定見です。

 

とすると、特定の発現形態たる個体のクローニング。そしてリピート再生って、太祖のイヴの遺訓を踏みにじることに……なってしまいますよね?

本来の多様性確保戦術の有性生殖のオプションをなげうってでも、個体の長命化をやっていいのか?

地獄の沙汰もカネ次第なのか? よくわからないところがあります。

 

もっとも、最近は精緻な遺伝子編集技術も登場しています。

人工的な進化というか、色々クリエイティブなことができそう。

(例)未来のオリンピックのある走り幅跳び選手は、蚤か蛙の組織を取り込んで優勝。「遺伝子ドーピング」とされメダル剥奪、という前代未聞のスキャンダルへ。

冗談はさておき。

遺伝子編集を重ねたら、(例)900年間の個体の記憶は連続していても、もはや同じ肉体とは呼べなくなる。200年の記憶は持続。しかしその頃には(例)両手プラス六本足の「考える葦」、いや、蜘蛛になってたら? それはパスカルと同じ「人間」か? 。

 

よきにつけあしきにつけ、刈り取り人としての死神。同時に駆り立て役でもある。

数百年生きられるなら、駆り立てる「ドライブ、drive」を失ってしまう可能性がある。

肉体、とくに心臓の拍動という自然的リズムはそのまま。しかし「自分は事故があっても、昨夜のバックアップ記憶があれば数百年は生きられる」

(人ゆえ、それくらいは当然自覚する)

そう自覚してしまった存在は、人間としてどうなるか?

試してみないとわからないですが、もはやこれは「エルフ」か「オーク」

(←にわかネタ、引きっぱり過ぎ)。

 

突然変異ないし大小のゲノムレベルの変化はいまもあるでしょう。

しかし有性生殖による多様性確保という生存戦略またはオプションは、その計算のつかなさも含め、原初のイブの思惑どおりに人類に有利に影響してきたのでしょうといえる。

ホントウにそれを放棄するのですか? 貴男や貴女や貴方はそんなに特別な個体ですか?

少なくとも僕はそうではないですが()、「そうだよ!」と言い切れる幸せな方もいるんでしょうね、広いグローブには。

 

なお、有史以降の人間に限ると、最も重要な遺伝子擬き。これは、生物学の分野のものではない。

故・梅棹忠夫氏のいう「情報」。現代風にいうとコンテンツ。

伝達媒体や配給方法より、そもそも他者の情報を脳内で解釈・発酵・展開する、変異・反転させる。そういう操作を可能にする基礎的なことも含む。

族や社会や教育などの諸制度にこそ最重要なのではないかと思います。

梅棹氏や福岡氏らの受け売りでしかない脱線もそろそろほどほどにします。

(わたくしのいうセリフじゃないっ!)

 

狭い意味での脱線は終わり。

 

 

(この項、続く)

お詫び&訂正 & 古代ギリシャ・オリンピック よもやま

前回のお詫び&訂正:

古代ギリシャのオリンピックは、都市(ポリス)を巡回することはなく決まって「オリンピア」で開催されました(オリンピアの管理権をめぐって争いはあったようですが)

開催都市を巡って戦いはなかった。

お詫びするとともに訂正します。

 

 

古代ギリシャ絡みネタの続き。

 

余談的よもやま話:

 

オリンピア

オリンピアは、土地の名前にもかかわらず、オリンポス山に近接しているわけではありません。しかし主神ゼウスを祀る場所として有名だったようです。

 

②休戦協定

なお、選手や観客の旅行の安全のため休戦協定があったのは、事実です。

しかも殆どの場合遵守されていた。驚くほかありません。

それゆえ今もオリーブの草冠は「平和の象徴」とされます。双方打ち方止めの徹底ぶりは現代国家も見習うべきものがあります。

 

③勝者の賞

勝者には、草冠と偉業を記録される栄誉(だけ)が与えられた。これも本当。

このことには、オリンピックの起源の諸説もおおむね宗教がらみで、祭典の宗教性が寄与していたのは疑いにくい。

また、以下のことは当時の参加者に意識されたかは疑問がありますが、

だがしかし現代人からしたら、

「参加資格が、地中海世界の他の土地の競技会のように「王侯貴族限定」ではないにせよ、自由市民の男性つまり基本的に資産をもっている者限定ゆえに『名誉だけで身に余る光栄』という、ゆとりがあったからだろうよ?」

後知恵的に、そう指摘する余地はある。

 

稀に、栄誉をカネで買おうとする者はいた。

そのことが、価値においてどっちが上だったかをはっきり示しているともいえる。

 

現代において、金メダリストがその後メダルを換金することはありうると思います。しかし古代ギリシャでは、記録された権利を他者に「ネーミング・ライツ」として放さすことはなかったでしょう。

また、現代の金メダリストやトップアスリートになるためにかかる費用が、その後いかに多くCM契約をとろうが、生涯収入の何倍にもなると想定されるようなら、スポーツ選手を志す現代人は激減するはず。

いざというときどっちを手放すか?

それをみれば、少なくともその時点でどちらを価値として上にみているか、くっきりわかる(漱石の『吾輩は猫である』にも例はちがうが、同趣旨の記述あり)。

 

④「市場価値」

「自らの市場価値を高めよ」などとすぐ追い立てられる現代のビジネスマン。

貨幣的価値を自らの価値とみなして疑わないなら、ギリシャの自由市民よりは奴隷に近い。ちなみに「スポンサーの意向」を忖度する姿勢が顕著なら、スポーツ選手とて同じ。

しかし古代ギリシャでも、奴隷が商才や才覚でのし上がることは比較的自由だったという。奴隷出身の商人はもちろん、有名な詩人もいたと記憶します。

その限りでは、ガチガチの中世よりは近現代に近い面もあった。近現代の精神的ルーツになっているのも当然でしょう。

 

⑤ネロ

「やらかしさん」のローマ皇帝ネロ。

あるオリンピックで、競技で失格したのに勝手に勝利宣言したり。当時あった歌唱コンテストで、ひどい歌声にもかかわらず優勝したり(審判団を買収か脅迫)。皇帝の死後、栄誉は剥奪されたようです。

ネロって……古代の「ジャ〇アン」だったとは。「やれやれ」。

 

⑥ 古代のオリンピックの終焉

最後に、古代オリンピックはどうして終わりを迎えたか。

紀元4世紀、ローマ帝国キリスト教に転じていきます。

植民地ギリシャでも、オリンピックは「異教、pagan」の祭りとして皇帝により最終的に禁止されました。

やはりその宗教的起源が問題になったわけです。

 

現代のクリスチャンは、たとえ原理主義者でも、オリンピックが異教的な起源をはらんでいることは……まぁ「近代」オリンピックですし? 気にならないようですね。

詳しくは知りません。

 

高橋(洋一)氏の、要約:「日本のコロナたいしたことない」「五輪開催一択」。 「統計通 兼 経済通 vs. 利害関係者(業界関係者)と、恐れ惑う大衆」?

高橋(洋一)氏の、要約:「日本のコロナたいしたことない」「五輪開催一択」。

 

「統計通兼経済通 vs. 利害関係者(業界関係者)と、恐れ惑う大衆」

の図式?

違います! 「感染症学など医薬業界関係者には、マッチポンプ屋や便乗屋がいる」……などと疑うことは許しません、ゼッタイ。

 

まず、五輪開催の是非から。

原点に戻りましょう。古代ギリシャのオリンピックは、神聖でした。

どれくらいか?

戦争中のポリスもオリンピックのために停戦したとも。開催地になるために戦争したとも。暦の紀年に使っていたとも。

おカネは神聖さを汚す。なので名誉しか与えられなかったとも。

紀年というのは、今なら、

「わたし、モスクワ五輪紀元の2年目の生まれでして」

「そうですか。ぼくはロスアンゼルス五輪紀元の2年目です」

「お? 〇巡違いですかあ」

2年生まれ同士、仲良くしましょう」

といったやり取りになるのか?

うん。不便。

 

とすると、近代五輪はまったく別の代物。

参加することに意義がある」近代五輪。ならば、不参加表明にも負の意義が生じるのは必然。異議申し立てに使える。正当か不当かは知りません。これは古代ギリシャではまぁ、ありえない。

1980年代以降は、スポンサーありきのイベントです。(例)「〇〇のメダリストなら生涯、金銭的に安泰」とかは、原点の、あくまで古代ギリシャでは、信じられない冒瀆でしかない。

というわけで。

初めての五輪で残念ですが、古代ギリシャならともかく、開催国の状況や都合もなんも、神聖さのかけらもないイベント。

開催する大義はもうない、シロモノです。

初めての五輪だけに残念。

五輪はその程度で十分でしょう。

 

ニッポンの感染率の低さ。諸外国も驚く統計的anomaly、異常数値。

これが依然として説明できていないのも事実。

 

日本の死因統計や、死者数統計(全体)に過少申告を疑うのは、無理筋。

なにより大事な、国全体としての「超過死亡、excess deaths」が……ない

「まだ無い」だけ? 立証できるなら、したいよ!。

 

つまり季節性や、年齢階層など調整して、

例・年・よ・り・多・く・の

 死・者・が・出・て・い・な・い。

なにより、この事実を説明できてない。専門家もにわか専門家も。

 

他方、コロナの大波の国や地域はどうか? 「超過死亡」がたしかに、有る。

死因報告との不整合がある(ように映る)国もある――余計な話です。

 

たしかに数か月前までは、インドも危険な遺伝因子の比率の高さの割には、「さざ波」。

日本が今後、津波に見舞われないと断言したり安請け合いしたりしない。

少なくとも日本人の滝行や水遊びは、「真夏まで待つが吉」。

 

ちなみに、

日本を含むアジア、特に東アジア。

オセアニア

南北端を除く、アフリカ。

この3つは、酷い国や地域と比べたら、「さざ波」としかいえない。

どれも日本とそうは変わらない。

 

Cf.Our World in Data」またはJohns Hopkins Universityのデータ。

前者のアプリまたはソフトは、エクセル並みに簡単。

ぜひお試しください!

 

それらの3地域は、欧州、南北のアメリカとは

明らかに様相が違う。

 

しかも、日本の異常値は。とんでもない不利で起きている。

 

推定震源地との距離の近さ。

「爆買い」など人的交流や人流の密接さ。

世界一の高齢化人口。

世界有数の人口密度。

都市への集住傾向。

……向かい風てんこ盛り。

 

ヒド過ぎじゃないですか?

でも、その中で異常に低い値が生じている。

 

一部行政区域や感染症指定区分ゆえの混乱や苦労は泣けてきます。

心理的に、あくまで心理的に親密に寄り添うと誓いたい。

そういう倫理と寄り添いは大切。

そこまでは倫理です。

 

でも倫理と、科学的な因果関係の分析は、先進国では、別物。

 

さっきのあれだけの不利な条件。

それを、手洗い・マスクなどの衛生習慣。医療関係者のがんばり、ぬるま湯のような自粛。その合わせ技で全体として「さざ波」止まりにできていた。

という10,000%もっともな仮説。10,000%正気な主張。

――は、とりあえずおいておいて。

日本より数段深刻なビッグ・ウェーブに、国全体として遭遇していた国民と市民。

医療機関従事者の苦労は本当にどんなに大変だっただろう。

そう想像されて泣けてきます。

泣けませんか、人間として?

 

あらゆる病は、

遺伝的因子、環境的因子。エピジェネティクな因子。

地理や風土、気温、湿度、日照、プラシーボなど。

多様な因子が発症や発病を左右する。

病理学の基礎、「101」です。

でも、素人も納得の話。

 

特に感染症は、発症や発病の異同がしばしば生じる分野です。

そんな複雑なものを、一つの原因や対策に絞り込めるという、マヤカシな議論か、

もっともな議論。

乗るか反るか。

それはわたしや、貴男や、貴女や、その他 次第。

 

今は、自己責任と自業自得の時代。

「ダマされた」「知らなかった」はもう通用しない。

心の片隅にでも小さくメモしておくのが末吉。

 

The Lesson Learned….again

So here’s the Lesson learned (again) over the past year or so:

 

When the Mood rises in the Far East,

Fact and Logic sink -rapidly- beneath the horizon of consciousness.

 

In the land of Confucian, I mean, conformist ethics,

You ain’t got nothing to fear when you’re jaywalking along with the crowd.”

Novel Corona/New Crown Virus:

Not a Pandemic, but a Hemidemic?

The original text has been edited subesequently and so may differ in expression, but not in substance, from the mechanically translated Japanese version

 

Introduction

 

Today is the 13th, the ides of January CE2021 -roughly ten months since covid-19” and all pandemonium broke loose. For us living in the Northern Hemisphere, we are spending our first Winter months with the corona/crown virus.

In this “first” dead of Winter, I write this memo, not to bury away the epidemic in a cacophony of jargon, but to appraise it sensibly.

 

If you observe some of the data, as shown in the chart below, it should be clear that this strain or scythe does not strike or reap equally.

 

          Chart 2: Deaths -cumulative; per million

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Chart 2: Deaths -cumulative; per million

Indeed, degrees in damage differ dramatically: at the lower end of this spectrum are regions where the death toll is no worse or smaller than the seasonal flu or even pneumonia from a good old cold; at the higher end, it’s a serious and severe healthcare problem.

This epidemic is -so far- not “pan”(universal) but bipolar or half-sized. Thus the new (and hopefully appropriate) coinage: “hemi(half)-demic.”

 

The point that stands out is that the difference is observable by geographical breakdown alone.

 

After ten months, it’s fairly inconceivable that any lags that may have or could have existed, have still failed to materialize. East Asia always was a notable counter-evidence to this “lag” hypothesisanyway.

The breakdown above suggests, then, that it’s safer and saner to assume that, other geographical and climatic element(s) must be playing an important role -a role too great to be ignored.

 

True, emergency control of traffic flow, restaurant operating hours, encouragement to work remote and assimilation of hygienic practices may still be necessary to varying degrees.

 

Without, however, an attempt to consider these two glaring elements, I believe any explanation or hypothesis will be fraught with flaws.

 

新型コロナ:半デミック(hemidemic), NOT 汎デミック(pandemic)? vol.5

新型コロナ()ウィルス:パンデミック? 半デミック? Vol.5

 

3)事実3:感染者数の変動

グラフ③④は、感染者数と死者数の比較的短期の変動です。

日々確認された感染者を、7移動平均で示していますi

 

グラフ③ 日次感染者数(7移動平均。百万人当たり)

 

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グラフ③ 日次感染者数(7日移動平均。百万人当たり)

グラフ④ 日次死者数(7移動平均。百万人当たり)

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グラフ④ 日次死者数(7日移動平均。百万人当たり)

両グラフで目立つ異常値や動きは、所謂 「第一波」の後。

 1)南米の動き

4月以降、南米だけが感染者も死者数も一貫して増加しています。9月上旬頃まで高止まりです。

2)北米の夏場

北米にも南米を除く地域の5-9月の地域の落ち着きとは明らかに異なる時期があります。

北米(と、山は小さいがロシア)だけ、6-8月にかけ顕著な山がある。

310月後半~現在

おおむね10月半ば以降、EUも北米もロシアも顕著に増えている。

アジアやアフリカでも、スケールは相当小さいですが上向いています。

 

1)に関する仮説

まず南米については、南半球の温帯地域では5-8月は秋から冬だったことが関係していそうです。傍証となりうるのは、同時期の南米の温帯圏、プラス南アフリカやオーストラリアなどの感染者数でしょう。

 

グラフ⑤ 日次死者数(南半球諸国。7移動平均。百万人当たり)

 

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グラフ⑤ 日次死者数(南半球諸国。7日移動平均。百万人当たり)

グラフ⑤は、「日次死者数。7移動平均。百万人当たり――南ア、オーストラリア、南米の熱帯に属さない国の例(アルゼンチン、チリ、ウルグアイパラグアイ、ペルー)」。

 南アの最近の特異な動きは深刻ですがそれは一旦さておきます。

5月~9月にかけての南半球の晩秋~冬~初春は、南アでも南米の熱帯以外の諸国でも、死者が増えています。「コロナ優等生」のオーストラリアでさえ小さな山ができています。仮説の傍証とはなりそうです。

 

3)に関する仮説

前後しますが、(3)の10月以降の動きについて先に触れます。

今、北半球はは真冬です。例年であっても原種の旧型・冠(コロナ)ウィルスに感染、つまり風邪をひきやすくなる時期です。風邪をこじらせた肺炎もそれなりにありそうです。新型への感染や重症化もまた同様でしょう。

10月というのは、北半球で秋本番。徐々に寒くなる。例年通りであっても、「風邪」は増えてはをくるでしょう。

一方、南半球は目下、真夏。少なくとも4-7月のようには増えていない。

しかし、下げ止まっているのはかなり気がかりです。このことは後述します。

 

2)に関する仮説

では2の北米の感染者や死者数の異常な動きはどうとらえるべきか?

たった一年の数値から決めつけるわけにはいかない。ですが、2020年の夏場の変動を見る限り、南米の動きに遅れて増えているようにみえる。とすれば、地理的な近接性が関係しているのではないか? 新型劇症風邪ウィルスの最大の媒介者たる人の動き、いわば「人流」ゆえと仮説を立てるのが理にかなっていそうです。誰でもそう推測しますね。

具体的には、南北アメリカ間の出稼ぎや移民、帰省など。地理的近接性ゆえの人の往来の多さ。大雑把ですが、北米発・南米行きよりは南米発・北米行きの出稼ぎや移民が相当に多いでしょう。米国の人流の制限の詳細は、わたくしはまだ調べきれていません。2020年夏場までは人の往き来がまだあったのなら、北米の夏の「山」は、冬である南米からもたらされた可能性があります。

しかし、くどいようですが複数年の数値、データをみることができないので純然たる仮説ですii

 

新型冠(コロナ)ウィルスに限らず、どんな動植物の外来種と比べても、他の地域を元々の生息地、「ふるさと」とするホモサピエンスこそ、「最大の外来種iiiです。

 

 

余談: 「最大の外来種」人間と、動植物の違い

直前に「最大の外来種」という、一見ちょっと物騒な表現を引用しました。

注意すべきは、ホモサピエンスつまり人間の外来種は、動植物とは重大な違いがあることです。受け入れの是非を考える際、動植物の外来種とは全く異なる留保がつきます。

 

まず、動植物でもある、外来種到来などによる、遺伝的交流「交配」は人間にも当然あります。

また、人間も動植物の外来種と在来種同様、比喩的な意味で「光や水や餌」の奪い合いはありえます。実際、あるでしょう。

 

ですが、人間に特有なことはそれ以上に大きい。

人間になによりも特徴的なのは、今喧伝される、意思決定過程への女性や外国人の参画もそうですが、仮にそういうプロセスに関わっていなくても、異なるコトバ・知識・食文化・習慣――要するに馴染みの少ない文化文明などを人は一緒に連れてくることです。

様々な交流が様々なレベル、文化文明的階層で起きる。物理的に隣人となれば、少なくとも遠く離れた場所で暮らしているより、交流の可能性は飛躍的に高まる。あまりに当然で、「指摘」と呼ぶほどのことでもない。

無論、短期的には軋轢や摩擦も起きます。

例えば現代の日本で、仏教寺院や焼肉。

古代の豪族・物部氏のように「古来の神々を蔑ろにする」。または本居宣長明治維新直後の新政府のように「焼肉はカラゴコロの産物」・「寺の廃仏毀釈、断固貫徹」などといって損壊したり排除したりする人は……いるかもしれませんが、ごく少数ではないでしょうか?

それらのように、客、ゲストの異文化異文明は、やがて受け入れられ、ホスト国に定着する。在来の文化と意図しなくても影響しあい、混ざりあってゆく。こういう交流や混淆という現象は、コトバなど文化文明の伝達が(基本的には)存在しない動植物との顕著な、いえ、大き過ぎる違いであり、人間に特有です。

 

最近流行りの表現の、多様性/ダイバ-シティの一例ないし拡張です。

定住するつもりのお客、ゲストを受け入れたら、文化文明的な多様性/ダイバーシティは増し、長期的には受け入れ側、ホスト国の国力を引き上げます。

 

短期的な軋轢をおそれまたは衝き動かされ、長城や壁の建設、海禁や鎖国政策など交流禁止を為政者が人為的に施す。程度差はあれ可能ですし、事実ありました。そんなことをした国は、長期的には不利益をこうむる。潜在成長率などを引き下げることになる。自分たちはともかく、子孫の為にはならない。

 

長期的には、国やその領域の力を強くすることは自明だからこそ、

「文化文明の蛸壺に閉じこもるな。多様性を意識的に確保せよ」

という主張になる。いわば歴史の叡智です。

以下、多様性確保や排除による成功例と失敗例を挙げます。

 

失敗例① フランスのユグノー教徒排除

近代の入り口でいうと、カソリックによる弾圧の対象となったユグノー教徒は各国に散らばりました。ユグノー教徒が多く、かつ、当時最先端の知識人の時計職人をも多数失った、フランスは徐々に衰退していきますiv

 

失敗例② 清朝江戸幕府

ユグノー教徒の流出と同時期の、中国の清や日本。清(前の明朝も)や江戸幕府は「海禁政策」や「鎖国政策」をとった。程度差はありますが、海外との民間人の自由な往来の禁止は共通です。そのため中国では宋や元(グローバル帝国の元祖)、日本では安土桃山時代まであった、進取的で開放的な気風が社会から徐々にか、急激に失われました。

 (1)中国の海禁政策……ほぼそのまま清の終盤のアヘン戦争アロー号事件での屈辱的な敗北につながります。清、中国のその後については割愛します。

(2)日本の鎖国政策……江戸幕府鎖国キリシタン追放を行いました。

戦国時代や安土桃山末期の戦乱を経た江戸幕府当初の「日本」は世界有数の銃の保有国だったといいますv1630年代の島原の乱以降一転して国を鎖し、狩り以外の銃使用を禁じ、1850年ごろまでの220年の平和がもたらされます(儀式化した一揆は、幕末に再び暴力的になったといいます)。キリシタン追放にもかかわらず江戸文化はやがて花開きます。

しかし清朝ほどではないにせよ、四隻の「黒船」に幕府は開国を強いられ、有力外様大名薩摩藩長州藩は各々交戦して、惨敗します。

 

その後の日本は稀な偶然に恵まれ、明治維新や近代化にまずは成功します。

しかし維新後の数十年、江戸の文化遺産、庶民の文化は日本人の多くが評価せず、大規模に流出しました。明治政府に至っては否定していました。江戸的なものを否定したい明治政府はそうでしたが、もう21世紀です。国立・東京藝術大学には浮世絵、多色刷り木版画の専攻学科くらいは出来ていることでしょう。

一方、明治政府の富国強兵/軍備最優先は、250年超の軍事的・科学的な遅れを取り戻すため已むを得なかった側面は強い。とはいえvi、怖いもの知らずの世代の軍人が舵を握ると、または巨大地震や恐慌を経て庶民も「盗泉の水を飲む」ことをいとわなくなり、「坂の上の雲viiを追ったのか、転落します。

 

日本のことがでてきましたので、余談ついでに。

「歴史にifは禁物ではなく、付き物」。しかしif、シミュレーションをするとき、地理や自然的条件の制約は最低でも受けます。

「日本」は昔も今も四方八方が海に向いている。全国どこでも歩き続けたら外国より先に海にぶつかる。

しかし絶海の孤島やガラパゴス群島と同じ条件ではない。

適切な比較かどうか、イギリスにとってフランスは近い。フランスやポルトガルユーラシア大陸の西端と考えると、大陸とも近い。日本にとっては韓国や朝鮮半島は近い。ユーラシア大陸の東端は朝鮮半島カムチャッカ半島。つまり日本もユーラシア大陸に近い。地理的に海に開かれているが孤立もしていない。日本列島はヘン、いえ、フシギな島々です。

実際、行き来も1,500年以上前からある。秦の始皇帝は、不老不死の薬を求め東の果ての山に徐福を遣わし、彼は日本に定住したともされます。事実なら紀元前200年頃、中国と日本の行き来はあった。2,200年ほど前です。史書に記述がなくても交流はあった。

国を鎖していた鎖国220年を消し去りたいわけではない。「2,200年の中の220年」と眺めると年数でせいぜい1割(以下)。安土桃山の延長を歩んでいたら、現在『日本』と呼ばれる領域や庶民はどうなっていただろう?」 というifは考えたくもなるでしょう。

 

次に、成功例です。

成功例① 古代日本と弥生文化

古代の日本でいうと、縄文末期の寒冷化による縄文人の絶滅匹敵の時期の後。

朝鮮半島や中国南部など由来の人々(外来種)の来訪がありました。西日本から盛んになっていった(稲作含む)農耕文化の普及がなければ、奈良時代以降はなく、ひいては今の日本の(理想的)田園風景も、日本独特の食文化もなかったといえますviiiix

 

成功例② 第二次大戦後のアメリ

最近、20世紀のことですが、ロシア革命後や第二次大戦にかけて。特に後者の時期、ナチスなどの迫害を逃れ、アメリカやイギリスへ移民がおおぜい移り住みました。その集団や二世世代には、知識人もいた。一世代前の表現ですが「偉大な移民たちx」が多く含んでいました。有名どころはアインシュタインでしょう。

ノーベル賞の数で測れるかはともかく、英米ノーベル賞受賞者の移民・二世の比率の高さを調べたら驚かれると思います。

彼/彼女らの移住後を含む活躍や成果がかなり貢献したからこそ、おおむね現在に至るアメリカの国力の基盤がある。このことはほぼ争いがないでしょう。

 

動植物についても「外来種の一律排除は誤り」なのは知られています。

しかし、コトバやコミュニケーションがある、少なくともありうるホモサピエンスについては、その移動は、本来、動植物以上に阻害されてはいけません。

自分たちの住む国の将来の国力の衰退。それを意図的に招きたいなら、話は別です。しかし十分に知識や情報を教えられたつまり「インフォームされた」人なら、そんな選択をすることはまずないと思います。

 

 

i移動平均とは:

短期から中期の傾向をわかりやすくするため、かつ、超短期の、たとえば日々の変動にバタバタ慌てないために、(例)7移動平均なら、まず「月曜~日曜の平均」、一日経てば「火曜~月曜」というふうに、雑音やブレをある程度ならしてやる(除去するわけではなく、平均するだけ)。

均し方は、任意で決める日数や期間次第です。3日平均もありえるし、200日平均もありえます。

いずれにせよ、数値やデータ加工の領域では初歩の手法です。

 

ii「人流」という観点から、インフルエンザなどの流行を型別に遡って追跡すれば、南北アメリカ感染症と人の移動の相互関係が浮かび上がるかもしれません。

 

iii 「最大の外来種」という表現は、青山学院大学福岡伸一 教授(専門は、分子生物学)のもの。引

用は記憶に拠る。

 

iv 角山栄() 『茶の世界史』(中公新書1984)

 

v 典拠不詳。記憶に拠る。

vi

 

vii 司馬遼太郎の表現。

 

viii 鬼頭宏()『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫2000年。底本:『日本二千年の人口史』。PHP研究所、1983)。

 

ix 佐藤洋一郎()『稲の日本史』(角川ソフィア文庫2018年。底本:角川選書2012)

 

x 原語は“Illustrious Immigrants.”